『パピヨン(田口ランディ著 角川学芸出版刊)』
2009年8月16日 事実を知る
内容
チベットの寺にあった月刊誌で知った、エリザベス・キューブラー・ロス。
エリザベス・キューブラー・ロスとは…。
スイス生まれの精神科医。アメリカ人と結婚して渡米、死の研究を始める。
もっとも有名なのは、人は死を受容するまでに、
否認・怒り・取引・抑鬱・受容の5段階を得るという『死の受容の五段階』の論文。
ロスは死の研究を通じて今日に至るホスピスケアの基礎を築いた人です。
その研究は多くの末期患者と話した末に見出されたものでした。
末期患者を探す様子にロスは「死にたかるハゲタカ」と誹謗中傷を受けるのです。
通俗的な死の概念を打ち崩すそれら研究は、60~70年代には非科学的で世間からは受け入れられませんでした。
何故かそのロスが自分を呼んでいるような気がして、作者はロスについて調べ始め、
雑誌に連載を始めます。それがこの『パピヨン』です。
タイトルの『パピヨン』はご存知の通り蝶のことです。
なぜ蝶なのかと言えば、20歳のロスが第二次世界大戦後に
国際平和義勇軍のボランティアとしてポーランドに赴いた際、
ユダヤ人大量虐殺の現場にもなったイダネック強制収容所を見学します。
そこで寝棚の壁に残されていたたくさんの蝶の絵を見つけます。
なぜ蝶の絵なのか。死を前にした人々がなぜ?
ロスを追ってポーランドのマイダネック強制収容所に行った作者は驚くのです。
そこに蝶の絵などなかったのですから。ロスはどこで蝶を見たのか?
だが、この取材から帰国した作者を待っていたのは、実父の大怪我。
その治療中に発覚した末期癌だった。
甦る実父との過去の確執。介護。
それらは不思議とロスの著作の言葉とつながり始める…。
動機
田口ランディという作家は好きではなく、殆どチェックしていなかったのですが、
新聞の書評欄で紹介され、興味を持った1冊です。
書評を読み、読んでみたいと思い、図書館で予約。
それは恐らく私が、要介護5の認知症の伯父の介護をしていたことも
関係あるのだと思います。
感想
私が作者のことを苦手とするのは、かつて起こった盗作騒動よりも、
余りにも過去を売り物にしている感が強すぎるためだと思います。
私的な内容を描きながらも、自身で結論をはっきりさせないところが、
丸投げ感を感じてしまうのです。
文体も苦手。比喩に品がないというか…。
この本は全体的に霊的、スピリチュアルな内容です。
それに私的な感情・出来事を並行させています。
不思議とリンクするロスの言葉と父の状態。より不思議感を際立たせています。
私はスピリチュアルな世界を否定するつもりは全くありません。
私自身霊感がなくそのような経験をしたことがないため、
全面的に信じることは難しいですが、理屈で割り切れない、説明できないことは
たくさんあるからです。
この作品も作者の私生活を書き記した1冊です。
暴力的な父親、耐えるばかりの母親。兄は引きこもりの末に餓死。
壮絶です。そうなのですが…。
作者の父親は転院を繰り返し、ホスピスに入ります。
末期がんを告知するのですが、父親は何とそれを忘れてしまうのです。
アルコール中毒からの離脱症状から欲した認知症はよくなっていたはずなのに(あり得るのか?)、死を認めたがらない姿を描いています。
そして父の死。
父を憎みながら描き続けてきた作者がひとつの結論を得るのです。
…蝶のことです。
40代になったロスは、より精神的なもの、非科学的なものにのめりこみ、霊媒師の影響もあって、「死は終わりではない。人間は蛹から蝶になるように、肉体を脱ぎ捨てて魂となって別の次元に入っていくのだ(30頁)」と結論付けていました。
作者はロスの通訳をしていた男性とコンタクトを取り、こんなエピソードを聞きます。
「エリザベスは、ワークショップの時に蝶のぬいぐるみを使っていたんです。それは彼女の手づくりでした。(略)青虫のお腹の中に蝶が入っているんです。(略)死を怖がることはないのよ。私たちはみんな、肉体という殻をまとっているの。でもいつか時が来たらその殻を脱ぎ捨てて別の存在になるの。そう言って、青虫のなかから蝶を取り出して見せるんです(217頁)」
その蝶のぬいぐるみは、一見蛾のように見える胴の太いものだったそうです。
ポーランドでは蝶は、蛾のように見えるものとして描くのが一般的なんだそうです。
霊感の強いロスは、実際に描かれてはいなかった蝶を見た。
強制収容所で迫り来る死におびえながら生きていた子ども達が心の中で描いていた幻の、希望の蝶を。
作者の父親も入院中、たくさんの蝶を見たといったそうです。
作者の結論としてはっきりとは書かれていませんが、
死を感じた人間は、魂の行方をそのような幻影で見るのかもしれません。
一気に読めました。共感と違和感。どちらも感じます。
ロスの著作からの引用には共感できました。
ただ、実際に介護を経験した者からすると、
作者に対して共感以上に違和感をぬぐえないのです。
介護を描いた本ではないからだと思うのです。
介護を通じたもっとスピリチュアルな死を、人生を描きたかったからだと思うのです。
でも、私にはそれが伝わってこなかった。
そして介護に関して、有名小説家である作者と、私のような市井の人とは一線を画したものを感じたからだと思うのです。
私は伯父の介護を3年間してきました。
伯父は慢性腎不全を抱え、一級障害者になりました。
透析治療をせねばならず、しかも脳出血による認知症がありました。
大学教授の医者だったせいか、プライドも高く見栄っ張りで性格もわがままでした。
転院を繰り返し、最期の病院で寝たきりになるまで、
どこの病院に入院させても、もてあまされていました。
伯父とは言っても、血縁関係はありません。私の母の姉の夫だからです。
しかも母の姉は故人で、内縁の妻もいました。それも金の切れ目が縁の切れ目。
一人息子もいましたが、18年間一度も伯父の元を訪れませんでした。
入院してからもです。伯父は孫の顔も見ずに死んでいきました。
息子(私の従兄弟)は今回遺産相続を目的に葬式では喪主を務めましたが、ただいるだけ。周囲がお膳立てしないと何もしませんでした。
告別式が終った途端、実家で嫁と嫁の親と、通帳や生命保険、ロレックスの時計などを家捜しです。
地方の小さな短大の教授をしています。ちなみに従兄弟は歯科医です。
こんな奴が生徒を教えていいのだろうか? 医療の端くれにいていいのだろうか?
この本を読み終わった数日後、伯父は亡くなりました。
正直、伯父が死んだら楽になるだろうな、早く死んでくれないかとすら思っていました。
でも、葬式で泣いたのは私だけでした。
棺桶の中の死に顔を見た途端、哀れで泣けました。晩年の孤独さを思ったからです。
伯父も、蝶を見たのでしょうか?
私は介護にスピリチュアルなものを一切感じられませんでした。
親じゃないから? 血縁関係がないから? 家が近いからという理由で面倒を見させられたから?
そうじゃない。日々を乗り越えるだけで精一杯。
そんな状態でスピリチュアルを感じられないからだと思うのです。
ちなみに従兄弟の嫁が自称・霊感が強いそうです(大笑)。
チベットの寺にあった月刊誌で知った、エリザベス・キューブラー・ロス。
エリザベス・キューブラー・ロスとは…。
スイス生まれの精神科医。アメリカ人と結婚して渡米、死の研究を始める。
もっとも有名なのは、人は死を受容するまでに、
否認・怒り・取引・抑鬱・受容の5段階を得るという『死の受容の五段階』の論文。
ロスは死の研究を通じて今日に至るホスピスケアの基礎を築いた人です。
その研究は多くの末期患者と話した末に見出されたものでした。
末期患者を探す様子にロスは「死にたかるハゲタカ」と誹謗中傷を受けるのです。
通俗的な死の概念を打ち崩すそれら研究は、60~70年代には非科学的で世間からは受け入れられませんでした。
何故かそのロスが自分を呼んでいるような気がして、作者はロスについて調べ始め、
雑誌に連載を始めます。それがこの『パピヨン』です。
タイトルの『パピヨン』はご存知の通り蝶のことです。
なぜ蝶なのかと言えば、20歳のロスが第二次世界大戦後に
国際平和義勇軍のボランティアとしてポーランドに赴いた際、
ユダヤ人大量虐殺の現場にもなったイダネック強制収容所を見学します。
そこで寝棚の壁に残されていたたくさんの蝶の絵を見つけます。
なぜ蝶の絵なのか。死を前にした人々がなぜ?
ロスを追ってポーランドのマイダネック強制収容所に行った作者は驚くのです。
そこに蝶の絵などなかったのですから。ロスはどこで蝶を見たのか?
だが、この取材から帰国した作者を待っていたのは、実父の大怪我。
その治療中に発覚した末期癌だった。
甦る実父との過去の確執。介護。
それらは不思議とロスの著作の言葉とつながり始める…。
動機
田口ランディという作家は好きではなく、殆どチェックしていなかったのですが、
新聞の書評欄で紹介され、興味を持った1冊です。
書評を読み、読んでみたいと思い、図書館で予約。
それは恐らく私が、要介護5の認知症の伯父の介護をしていたことも
関係あるのだと思います。
感想
私が作者のことを苦手とするのは、かつて起こった盗作騒動よりも、
余りにも過去を売り物にしている感が強すぎるためだと思います。
私的な内容を描きながらも、自身で結論をはっきりさせないところが、
丸投げ感を感じてしまうのです。
文体も苦手。比喩に品がないというか…。
この本は全体的に霊的、スピリチュアルな内容です。
それに私的な感情・出来事を並行させています。
不思議とリンクするロスの言葉と父の状態。より不思議感を際立たせています。
私はスピリチュアルな世界を否定するつもりは全くありません。
私自身霊感がなくそのような経験をしたことがないため、
全面的に信じることは難しいですが、理屈で割り切れない、説明できないことは
たくさんあるからです。
この作品も作者の私生活を書き記した1冊です。
暴力的な父親、耐えるばかりの母親。兄は引きこもりの末に餓死。
壮絶です。そうなのですが…。
作者の父親は転院を繰り返し、ホスピスに入ります。
末期がんを告知するのですが、父親は何とそれを忘れてしまうのです。
アルコール中毒からの離脱症状から欲した認知症はよくなっていたはずなのに(あり得るのか?)、死を認めたがらない姿を描いています。
そして父の死。
父を憎みながら描き続けてきた作者がひとつの結論を得るのです。
…蝶のことです。
40代になったロスは、より精神的なもの、非科学的なものにのめりこみ、霊媒師の影響もあって、「死は終わりではない。人間は蛹から蝶になるように、肉体を脱ぎ捨てて魂となって別の次元に入っていくのだ(30頁)」と結論付けていました。
作者はロスの通訳をしていた男性とコンタクトを取り、こんなエピソードを聞きます。
「エリザベスは、ワークショップの時に蝶のぬいぐるみを使っていたんです。それは彼女の手づくりでした。(略)青虫のお腹の中に蝶が入っているんです。(略)死を怖がることはないのよ。私たちはみんな、肉体という殻をまとっているの。でもいつか時が来たらその殻を脱ぎ捨てて別の存在になるの。そう言って、青虫のなかから蝶を取り出して見せるんです(217頁)」
その蝶のぬいぐるみは、一見蛾のように見える胴の太いものだったそうです。
ポーランドでは蝶は、蛾のように見えるものとして描くのが一般的なんだそうです。
霊感の強いロスは、実際に描かれてはいなかった蝶を見た。
強制収容所で迫り来る死におびえながら生きていた子ども達が心の中で描いていた幻の、希望の蝶を。
作者の父親も入院中、たくさんの蝶を見たといったそうです。
作者の結論としてはっきりとは書かれていませんが、
死を感じた人間は、魂の行方をそのような幻影で見るのかもしれません。
一気に読めました。共感と違和感。どちらも感じます。
ロスの著作からの引用には共感できました。
ただ、実際に介護を経験した者からすると、
作者に対して共感以上に違和感をぬぐえないのです。
介護を描いた本ではないからだと思うのです。
介護を通じたもっとスピリチュアルな死を、人生を描きたかったからだと思うのです。
でも、私にはそれが伝わってこなかった。
そして介護に関して、有名小説家である作者と、私のような市井の人とは一線を画したものを感じたからだと思うのです。
私は伯父の介護を3年間してきました。
伯父は慢性腎不全を抱え、一級障害者になりました。
透析治療をせねばならず、しかも脳出血による認知症がありました。
大学教授の医者だったせいか、プライドも高く見栄っ張りで性格もわがままでした。
転院を繰り返し、最期の病院で寝たきりになるまで、
どこの病院に入院させても、もてあまされていました。
伯父とは言っても、血縁関係はありません。私の母の姉の夫だからです。
しかも母の姉は故人で、内縁の妻もいました。それも金の切れ目が縁の切れ目。
一人息子もいましたが、18年間一度も伯父の元を訪れませんでした。
入院してからもです。伯父は孫の顔も見ずに死んでいきました。
息子(私の従兄弟)は今回遺産相続を目的に葬式では喪主を務めましたが、ただいるだけ。周囲がお膳立てしないと何もしませんでした。
告別式が終った途端、実家で嫁と嫁の親と、通帳や生命保険、ロレックスの時計などを家捜しです。
地方の小さな短大の教授をしています。ちなみに従兄弟は歯科医です。
こんな奴が生徒を教えていいのだろうか? 医療の端くれにいていいのだろうか?
この本を読み終わった数日後、伯父は亡くなりました。
正直、伯父が死んだら楽になるだろうな、早く死んでくれないかとすら思っていました。
でも、葬式で泣いたのは私だけでした。
棺桶の中の死に顔を見た途端、哀れで泣けました。晩年の孤独さを思ったからです。
伯父も、蝶を見たのでしょうか?
私は介護にスピリチュアルなものを一切感じられませんでした。
親じゃないから? 血縁関係がないから? 家が近いからという理由で面倒を見させられたから?
そうじゃない。日々を乗り越えるだけで精一杯。
そんな状態でスピリチュアルを感じられないからだと思うのです。
ちなみに従兄弟の嫁が自称・霊感が強いそうです(大笑)。
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